たかしげエッセー ①壊れた心臓で八十路を下る

たかしげさんから新たなエッセーが届きました。2度の心臓手術のご経験を詳細に語られています。手術のことだけではなく、職場や生活面での記述も多く、なにか懐かしさを感じさせる、そんなたかしげさんの貴重な文章です。
今回は前編です。後篇もお楽しみに。

カムバックハート

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①壊れた心臓で八十路を下る
 
心臓の異常を知らぬが仏
             
東北新幹線や上越新幹線が開通し高度成長に陰りが見え始めた頃だった。戦後復興に電力需要が逼迫(ひっぱく)していて、火力発電所を製造、建設する重工業社でプラント設計屋として勤めていた。まだ成長期の仕事量は受注され、デスクワークは勿論のこと出張打ち合わせと連日忙殺されていた。毎夜深残業、休日出勤は連チャンだった。「納期厳守・コストミニマム・設計時間短縮・品質保証・・・こんなフレーズの熟語を洪水のごとく聞きながら神経をすり減らしていた。仲間同士で呑んだ時には「もっと楽な仕事に移りてえーな!」と、こぼしていた。
それでも、40才の後半になっても、昼休みはいろいろなスポーツを愉しみ、バトミントンに熱中して汗まみれで愉しんでいたその時、スマッシュを打った瞬間その場にヘタヘタと崩れるようにしゃがみ込み脱力感で動けなくなった。
予期しない出来事だ。
中学入学時に校医から心音がおかしい。
運動は一切止めた方がいいと注意された記憶がある。
でも、遊び盛りだ。ほとぼりが冷めた頃に下手なりにあらゆるスポーツに首を突っ込んで動きまくった。20代には夏、丹沢山塊の冷たい水の飛沫が舞う沢登りに夢中になり、水泳に誘われては同行、誘っては仲間を引連れて活発に動き、医師に指摘された欠陥心臓の兆候はまったく無かった。医師の忠告はとうの昔に忘れていた。

他人の心音を聴いてわが身を知る

風邪を引いて会社の診療所で診てもらう、医師から心音がおかしいと云われた。
心音に異状があると云われても自分ではどのような異状なのか分からない。正常な心音はどのようなのか町医者では訊けなかったが、企業の産業医の人柄に気安さを感じて訊いてみた。
「正常と異常の心音の違いはどんな音なのか分からないのですが?」先生は即座に聴診器を渡してくれ、上着の胸をはだけて自分の心音を聴けと促した。まさかと思い驚いて慣れない手つきで先生の胸に恐る恐る聴診器を当てた。「ドックン」「ドックン」と、力強い心音が規則正しく聴こえて来る。
これが普通の人の心音かと思いながら自分の胸に聴診器を移した。違う!全然違う。素人でも心音の違いがはっきり分かる。聴診器を伝わった自分の心音が「ザ・ザー、ザッザー」と不規則な雑音のような音が聴こえてきた。心臓がおかしいと云われて20数年、自分の心音を聴くのは初めてだ。
先生に聴診器を手渡しながら医師が身につけて使う大切な道具を患者の異状を患者自身に知ってもらうとした先生の姿勢に「ありがとうございました」の言葉を添え丁重にお返しした。日頃、医師に対する敬う気持からこんなことは考えられないことだった。

心臓異常と大型ジョブ

50才を目前にして今まで自宅近くの坂を駆け上がっていたが、休みながらの足取りになり、異常な息づかいや変調に怖さを感じた。
この時、サウジアラビアの紅海寄りのヤンブ地区に建設されるボイラーの工場組立モヂュール工事のプロジェクトのメンバーとなった。技術的にも未だかって無い工事内容だった。このジョブが動き出した矢先の身体の不調で、近くの成人病センターへ入院し各種検査をした。ワーファリン服用を命じられ、この日から大好きな納豆と訣別する羽目となった。
心臓の超音波(エコー)の診断を受けた。先生は口を開くや真っ先に「弁膜症だね」と云った。まったく予期していない病名だった。
中学校の検診では「ボタロ管開存症」と云われたのを記憶している。これは胎児のときに動脈管と肺動脈管が連結していた「ボタロ氏管」が出生後不用となり自然に閉鎖するにもかかわらず、開存している先天性の心臓奇形と説明を受けていた。戦後まもなくの、医療検査機器などない時代で聴診器と触診で判断されたのだろう。
成人病センターでは女医師であり、検査、治療など心もとない気がしていた。鼠蹊部からのカテーテル挿入検査を含めて弁膜症の疑いありと診断された。

横浜市大病院へ転院

大もとの病院の横浜市大病院へ転院することになった。
あまり評判は良くない噂があったけれど会社の健康診断はこの病院からだったので指示されるまま自然の成行きだった。セカンドオピニオンの言葉すら知らない時代だ。
パジャマは勿論、洗面道具一式持って転院した。
連日のように採血、各種検査で慌ただしい、さらにインターン医学生が病室に来る、いつしか質問に対応する説明はよどみなく出来るようになり内憂外患を曝け出しているようでいい気はしない。
医師から直ちに手術して人工弁に置き換えなければ命は5年と持たないと宣告された。金属弁と生体弁とがあるらしい。どちらに取り替えるのか分からないが自分で選択できるわけでなく、こぶし大の心臓に25㎜の大きな弁を取り付けてスムーズに開閉できて違和感はないのだろうか不安になった。体験者に体験談を聞いた。にこやかに術後快調!の声が反って来て心強くなるが、完全に不安が消えたわけでない。
弁膜症は弁に欠損があり閉鎖不全・狭窄が起きて血液が順調な流れとならないために不整脈が起こり、血栓が出来やすく、この血栓が脳に飛べば“脳梗塞”となり身体が麻痺して半身不随になる恐れがある。この血栓が出来ないように血液の抗凝固薬「ワーファリン」を服用するようしている。この薬を服用すると薬用効果を損なう「納豆」は食べてはいけないと厳しく注意された。

「ワーファリン」服用、納豆と脳梗塞

当時、関西の病院(国立循環器センター)でワーファリンは著しく効き、問題なく使われていた。だが、関東の病院で使われるようになると効果が半減して医学会で問題になったと聞いた。
納豆は関東では昔から多くの人が食べるが、関西では余り食べなかったから問題にされなかったと聞いた。納豆に大量に含まれているビタミンKが、ワーファリンの効き目を打ち消してしまうためらしい。納豆に含まれている納豆菌が、腸内で大量のビタミンKを作り出すらしい。
三度の食事を忘れても、ワーファリンの服用は絶対忘れてはいけないと厳しく命じられた。納豆は大好きで、仲間と酒を飲むときのつまみは真っ先にウズラの卵を落とした「たまご納豆」をオーダーした。好物を絶たれる辛さはよほど強い意思が必要だ。家族にも協力してもらい“断酒”ならず“断ナットウ”の食生活となった。家族が納豆を食べるときは豆腐やメカブ、オクラが食膳に出て気遣ってくれた。
昼の弁当の納豆は仲間から狙われるようになり理由の説明には慣れてしまった。


(ワーファリン服用の影響による脚部の内出血)

心臓と機械のポンプ

変わった病院で担当助教授から病気について話された。「弁膜症の原因は、大部分がリュウマチ熱で、この熱は学童期に発病するのが普通だ。少年の頃、発熱の経験は?」と訊かれ、とっさに「小さい頃から熱を出して医者通いばかりしていました」と答えた。
「それがリュウマチ熱で、難しい話だけれど溶血性連鎖球菌と云う細菌が咽頭炎を起こした後に溶連菌の感染に対する反応として起こってくる病気ですよ」先生は詳しく説明してくれたが理解できない内容の説明だ。心臓の本を読んでいたからある程度は分かるが専門的な話になると「?-----」怪訝な顔を察したのか先生は更につけ加えた。 
「この溶連菌はいつも動いている筋肉でしかも柔らかいものに取り付く。心臓の弁は四六時中開いたり閉まったりして動いているから、まさに溶連菌の大好きな餌食となる」
「この大動脈弁弁膜症は比較的に症状が表れにくく、高齢期になって心臓に異状を感じる場合が多い」と説明された。
過激なスポーツが出来たのはまさにこの通りだと思い理解出来た。心臓に過激な運動で負担が掛かったせいか、大分心臓が肥大している」「これからは、運動は止めたほうがよい」と忠告された。
機械のポンプを知っているかい?」突然、先生は突拍子もないことを口走った。
今の仕事に結び付く質問なので、うなずくと先生は更に話を進めた。
「ポンプの入り口側は流速が遅い。僧帽弁は血液の入り口弁だから流速が遅いから血栓が出来やすい、要するに流れが遅いのは、よどみ(、、、)に血栓をつくり易い。小さなドブ川も然りだ。
一方、出口側は流速が速い。大動脈弁は出口弁だから流速が速い。よどみ(、、、)をつくりにくい。君の場合は大動脈弁の狭窄、閉鎖不全であっても症状がハッキリと表れなかったのかもしれない、血栓も出来にくかったと思うよ。ラッキーだったんだな」
「しかし、必ずしも流速ばかりではなく別の要因もあるけれど-----」とこと細かに説明してくれた。
ポンプ出入り口の流速の話はまさに現在担当している仕事そのものだったから明解で、医師がこんな細かな内容について説明されたのは驚きであった。医師によっては「余計なことを訊くな!」と渋い顔をして対応してくれないのが大方の医師の姿勢だろう。当時はインフォームドコンセントとかセカンドオピニオンなどのことばは無い時代だったから。

手術待機でも厳しい業務を担う

わずかの休みだったが、机上は書類や図面の山で埋まっていた。
技術連絡の質問に応えた書類を書き、メーカからの電話連絡のメモに応じて電話をし、ファックスを打ち、慌しい一日がまた始まった。
上司が「詳しい診査どうだった」と訊かれた。一通りの検査結果を説明し、「手術はベッド空きまで待つらしいです。まだ決まらないので、恐らく来年になるかもしれないです」と応えた。これといって体調に変化はない。病気を理由とした「看板」を掲げて会社生活はしたくないと常々思っていたから入院待機の状態だけれど自分から工事担当を外してくれとは云わなかった。別に虚勢を張っているわけではない。プロジェクトの面々から「待ってました!と顔を覗き込まれ業務のやりとりや打ち合わせが頻繁になってきた。
高校野球に幕が下り、秋風が立ち始めた頃、入院の連絡があり、一年近く待たされたが、いよいよ未知の手術に踏切るときが来たのだ。



病院か小学校の廊下?

入院して驚いたのは病院らしからぬ院内雰囲気だった。欠陥心臓を持った子供たちが夏休みを利用して手術するのか、終わったのか、廊下は小学校の休み時間のように騒がしい。点滴ポールを押し、引きずって走り回っている。こんな小さな子供が生れながら心臓を患っているとは驚いた。夏休みが終わる時期で、日毎に静けさは戻った。未来ある子供が欠陥心臓に立ち向かっている無邪気な雰囲気に感銘を受け励まされたようだ。
今回、大動脈弁の手術する時に、肺から心臓に入る僧帽弁も幼児期のリューマチ熱により石灰化が進み狭窄、閉鎖不全となっているのを「指を突っ込んで広げるから・・・」と医師の一人が野武士のような乱暴な言葉遣いで云われた。

生きて戻れるか、心臓手術

1982年9月22日の朝を迎えた。病室から見える空は薄曇りだ。見納めになるか、このベッドに戻れるか、早々と来てくれている家族と雑談を交わしていると看護婦さんが来て注射を打った。ストレッチャーが運ばれ、乗るように促された。

昭和57年9月21日いよいよ明日は大手術の決行だ。用意万端整った。“運・鈍・根”必ず日記の次のページを書くぞ!家族、親戚、会社の皆様の心遣いに感謝します。
こんなことが保存してある日記帳に書いてある。

 精神安定剤か睡眠剤を飲まされ、効いたのか眠い。
佐藤先生(指を突っ込んで広げると云った先生)がお見えになり心強い言葉をかけて下さった。胸につかえていた不安がスーと下りたようだ。意識が朦朧としてきた。
ストレッチャーに横になると呂律が回らなくなり、運ばれる途中のエレベーターの近くで社の友人が励ましてくれた声を遠くに聞きながら意識がなくなった。

  ----手術時間は10時間ほどだったらしい----

麻酔から覚めやっと手を動かし顔の前に持ってきた。驚いた。手の甲や指が丸太のように膨らんでいた。不整脈があり、整脈処置室に運ばれ身体に付いている導線に金色のご飯を盛るシャモジのような板を当てがわれ、その度にまな板の魚のように体が跳ね上がった。「駄目だな!」と、医師の会話を聴いて結局問題ない不整脈と判断された。後年ペースメーカーを装着するまで気にしないで続いた。
咳、クシャミをすると胸の傷痕の痛みは盲腸手術の比ではない。ガーゼが取れ抜糸をすることになった。胸の傷が露わに見えた。大きなムカデが張り付いているようだ。30cmほどの長さにわたって茶色に変色した縫い糸が張り付いている、肌は消毒液で薄く茶褐色に変色している。25針数えた。痛さを分散するのか3回に分けて抜糸することになった。糸の真ん中を縦にはさみが入り片側から順次抜く、「痛てェー!」並の痛さじゃない。激痛をこらえながら、片方から一本ずつ変色した糸が抜かれた。これで完全に手術が終わったのだ。でも、両腕を拡げられない。抜糸の激痛が和らぐと生き延びた嬉しさがとめどなく湧いてきた。
手術後のレントゲン写真を見せられた。胸の中央に縦に開いた胸骨を止めた針金の両端をねじった輪が写っていた。胸を時計に例えると11時から5時方向に5㎜巾で、長さ(直径)25㎜程度の白っぽい影がはっきりと写っていた。これが埋め込んだ人工弁だ「これからしっかり開き閉じてくれ頼んだぞ!」と思わず呟いた。
勤務先の会社の移転が気になっていた。〈みなとみらい地区〉から新杉田先の新横浜金沢工場へ移転する車列を心臓手術に成功して病院から感慨深く見送った。この移転は事業所としては大きな転換であり、心臓手術も人生のアクシデントだが、人生の転換でもあった。

再出勤の感激

退院して翌年正月に出勤した。好例の年頭の挨拶を聞く。同時に入院前に新設工場にふさわしい安全塔応募したのが当選し、序幕式に出席するよう指示を受けた。それよりも長欠のお詫びとお礼が先だった。担当ジョブの進捗が真っ先に気がかりで建設現場へ足を踏み入り熱砂の国、サウジアラビアへ納めるボイラモジュールプラントの建設がどんどん進んでいる。早速、構内海寄りの建設現場へ急いだ。



 入院する前のモジュール場の様相と大分違っていた。今まではボイラー本体を構造物で囲った程度のモジュールだから極めてシンプルで小型だった。目前にあるものは物凄く大きい。長さ26m、巾15m、高さ22mのボイラー本体や補機、配管、配線を含めた大きなボイラモジュール構造物が3基と、ひと回り小さく大名行列で見る「奴さん」のような形のガスクーラが1基、建設場に仰ぎ見るような威容な姿が整然と並んでいた。
4ヶ月の病欠を経た目に映った光景は圧巻だ。目を見張るほどの偉容だった。手術を前にしてこの担当を断らなくてよかった。
1年前に図面を描きコンパスを使い電卓を叩き初物で暗中模索ながら設計製図を進めてきた構想のボイラモジュールが現実となって目の前で仰ぎ見る。ボイラモジュールの形状、配管、操作ステージすべてが、手術で10時間余の空白の世界を経たにもかかわらず鮮明に甦って来た。記憶は失せていなかったのだ。
作業者がボイラモジュールの階段を上り下りし、溶接火花が飛び散り、アセチレンガスの炎が鋼材をカッティングしていた。工事は真っ盛りだった。溶接の火花の眩しさや煙の臭いが生き返った五感を久しぶりに刺激した。甦った自分の目で細かな部分を見て、自分の頭で計画設計描いた部分の要所々を確認したかった。階段を上った。手摺を掴み一歩踏み上がった。痛い!胸が張り裂けるようだ。
「おれは胸を縦に切り開いているのだ、痛てえはずだ」と改めて手術の創の痛さをこらえて周囲に目を凝らした。新しい発想として取り入れた改善の結果を一つひとつ確認して回った。思ったとおりに出来上がっているのに満足した。後輩やプロジェクトチームの仲間たちが頑張ってくれたおかげだと偉容を誇るボイラモジュールを仰ぎ見て感激、感謝した。
3月、春になり海上クレーンが接岸し次々とバージ船に積まれて熱砂の国サウジアラビアへ船出して行った。見送る身体から人工弁の鈍い金属音が小気味良く聞こえてきた。天空には船出を祝うかのように数羽のトンビがピーヒョロと鳴いて舞っていた。



どこまで壊れているのかこの心臓

70才まで勤めさせてもらい退職後、趣味の生活で悠々と暮らしていた。術後のフォローを横浜市大付属病院の准教授に託されて10年来、診ていただいていた。
「前回大動脈弁を置換した時に僧帽弁も狭窄が進んでいる、経年で石灰化が進んでいるから手術を考える時期だな!」と言われ、「QOLを維持するためにも置換手術をした方が良い、年齢的にも決して遅くはない」と僧帽弁置換手術を強く勧められた。ちょうど喜寿だ。また手術、と思いながら「はあ?」と心なしか弱く返えした。医師は「90才を超えての手術は難しいが85才くらいでも余病がなければ大丈夫だ」と、付け加えた。さらに続けて「九州大学から教授が移って来ている心臓血管外科の陣容は充実している」と、念を押され、再度の手術で不安顔だったので勇気づけてくれた。
 最近では駅から自宅まで15分ほどのアップダウンの坂を歩くのに膝痛と息苦しさで休みながらの歩みとなり、タクシーを利用せざるを得なくなってきた。
QOLを向上維持するためと云っても喜寿を目前にしてハードな行動はもう無理だろう。手術のリスククは厳しいし30年前に30㎝も胸を切り開き、タコ糸のような糸で切開創を縫われた激痛をまた体験すると思うとウンザリだ。
外出では文明の利器のエレベータ・エスカレータはあるしタクシーもある。当然リタイアした身だ。身の回りのことが出来る程度で暮らせるならそれで良い。
家で机に向かいキーを叩きマウスを転がしている分には自覚症状もなく普通の暮らしが出来る。庭木の手入れなどの軽い作業では少しは息苦しくなるが問題ない。高いリスクを冒してまで手術に挑むことはない。日本人男子の平寿命まで介護の世話もなく生きられるだろう。孫たちも順調に高校へ進学している。
この頃、81才で人生の終焉を迎えた先輩の訃報が入った。現役時代は机を並べて仕事した仲だった。中学のクラスメイトも逝った。認知症で介護施設に入っている者もいる。分かりきったことだけど人の命には限りがある。だったら細々とでもよい、手術の危険を冒し胸の創を重ねてまでも生きるか自問自答した。自然の成行きで生きられるところまで生きようと心に決め、家族にもこの心境を伝えた。

つづく・・・

(文章・写真提供: たかしげさん)
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Author: カムバックハート

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カムバックハートこと、鍋島と申します。神奈川県川崎市在住の49歳男性。

2008年12月に僧帽弁形成手術を受けて、第二の人生をスタートさせることができました。

南淵先生と私

南淵先生と私(術後の初外来にて)

フィルムで写真を撮るのが趣味です。(元)心臓病仲間のポートレート写真展の開催に向けて準備中です。詳細はこちらの記事。「創と私」「術前 vs 術後比較ポートレート」「病気を支えた家族と(元)患者のツーショット」「笑顔の(元)心臓病仲間のポートレート」のテーマで作品制作中です。これから心臓手術を受けるかもしれない人達に元気になる期待と勇気を与えたいと思っています。

心臓病仲間の輪に入りたい方や、ブログについてのご質問、お問い合わせのメールはお気軽にこちらへ どうぞ。但し、私は医者やカウンセラーではないので医学的なご質問にはお答えできません。初めての方は簡単なプロフィールをお願い致します。

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ブログ開設: 2008年12月
お知らせ
このブログは、私が弁膜症の僧帽弁閉鎖不全症という病気に診断されたところから、入院、手術、退院、その後の生活という流れで時系列に記載しています。2008年12月当時の状況ですので、その後の医学の進歩で内容的に古くなっている部分があるかもしれません。実際の患者にしか分からない心理的な面の記述をできるだけ表現したつもりです。最初から読まれる場合は、「★はじまり ~こちらからご覧下さい~

コルコバード


南淵明宏先生の公式サイトにある「勇患列伝」 その7に出てくる「平松」とは私のことです。

yomiDr.のサイトにある世相にメス 心臓外科医・南淵明宏ブログ にこのブログのことを書いて頂きました。こちらの記事には第三回(元)心臓病仲間の集まりについて書いて頂きました。
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