たかしげエッセー ②壊れた心臓で八十路を下る

たかしげエッセー 続編です。
カムバックハート

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②壊れた心臓で八十路を下る

悠々の暮らし忍び寄る病魔

70才まで勤めさせてもらい退職後、趣味の生活で悠々と暮らしていた。術後のフォローを横浜市大付属病院の准教授に託されて10年来診ていただいていた。
「前回大動脈弁を置換した時に僧帽弁も狭窄が進んでいる、経年で石灰化が進んでいるから手術を考える時期だな!」と言われ、「QOLを維持するためにも置換手術をした方が良い、年齢的にも決して遅くはない」と僧帽弁置換手術を強く勧められた。
ちょうど喜寿だ。また手術、と思いながら「はあ?」と心なしか弱く返えした。医師は「90才を超えての手術は難しいが85才くらいでも余病がなければ大丈夫だ」と、付け加えた。さらに続けて「九州大学から教授が移って来ている心臓血管外科の陣容は充実している」と、念を押され、不安顔だったので勇気づけてくれた。
 最近では駅から自宅まで15分ほどのアップダウンの坂を歩くのに膝痛と息苦しさで休みながらの歩みとなり、タクシーを利用せざるを得なくなってきた。
QOLを向上維持するためと云っても喜寿を目前にしてハードな行動はもう無理だろう。手術のリスクは厳しいし30年前に30㎝も胸を切り開き、タコ糸のような太い糸で切開創を縫われた激痛をまた体験すると思うとウンザリだ。
外出ではエレベータ・エスカレータはあるしタクシーもある。当然リタイアした身だ。身の回りのことが出来る程度で暮らせるならそれで良い。
家で机に向かいキーを叩きマウスを転がしている分には自覚症状もなく普通の暮らしが出来る。庭木の手入れなどの軽い作業では少しは息苦しくなるが問題ない。高いリスクを冒してまで手術に挑むことはない。日本人男子の平寿命まで介護の世話もなく生きられるだろう。孫たちも順調に高校へ進学している。

未体験の病状と自覚症状

木彫り教室に参加して楽しんでいる。QOLも維持出来ていると自負していた。
子供の頃から木を削り模型などを創るのが好きでキッドでなく素材から工夫して作る趣味を持っていた。月2回の木彫り教室で緑地帯の倒木材を貰い受け縁起の良いフクロウ(福老)が主な作品だった。まあまあの出来で、秋には地区の文化祭に展示して充実した毎日だった。                 
教室に出かけて木彫りの仲間と雑談しながら彫刻刀を突き削る時間は充実と愉しさをもたらしていた。ワーファリンを服用しているから怪我はしないよう手袋をはめて刃物を扱う。一年ほど経過して、駅から15分ほどの教室まで歩いて行くのが苦痛になってきた。
道中、急坂の息苦しさを避けるようコースをいろいろ変えても苦しい、情けない。70才まで通勤した同じコースで、若い頃は飲んでの帰り道で駆け上がった坂道なのにと、気が滅入る。
木彫りの作品を地区文化祭に展示参加した。見学者に観てもらうと思うと彫る熱う意欲が一段と上がってきた。
作品をザックに入れ担いで教室の仲間と展示会場まで歩く。
15分程度の距離だったが平地でも健脚の仲間に合わせて歩くと息苦しい、話しかけられても応えるのは苦痛だ。
無言で歩調を合わせるよう焦る。荒い呼吸を気づかれないよう気にしながら歩く。
帰りはバスを利用した。一つ停留所なのに「何故バス?」と怪訝な顔をされて仲間と別れた。バスの時間に間に合うよう急いだせいか、吊革を掴んで激しい鼓動を鎮めるのに荒い呼吸が続いた。こんな状態では頭から血が失せていく感じだ。
30年前の大動脈弁置換手術した違和感は忘れていたが最近は心臓左側に痛いのではなく不自然な重圧感を意識した。
鳩尾(みずおち)部の激痛ではないので心筋梗塞ではない急に倒れる心配はないと自分に云い聞かせながら大きく呼吸をして落ちつかせた。
2010年6月 定期検診で心臓エコー検査の結果の説明を受けた。
健常者の僧帽弁の開口面積は4~6㎠であるが現在1.5㎠と約1/3以下に狭くなっている。と云われ、自覚症状の有無を訊かれた。
「この頃、階段の上り下りに息苦しさを感じるようになり、家での生活で無理しなければ良いのですが・・・と、症状を訴えた。
先生から手術に踏み切ることを再度強く勧められた。30年前から比べて著しい医術の進歩と金沢区福浦に新設移転した横浜市大付属病院の設備や医師の充実を説明され心配無いことを強調された。別の病院で診てもらっても良いとセカンドオピニオンを選択する自由を暗示された。
最初の手術後約30年間フォローしていただいて気心が知れているのに今さら別の病院に・・・・の転院の気持ちはなかった。でも、TVやネットで心臓医の卓越したゴッドハンドを持った医師が紹介されている時代だ、それらの医師の実力実績を知り得るが、永年診てもらっている病院との優劣は分からない。
この頃、心配のあまりPCネットで心臓疾患、手術に関する情報を集め知識を得ようと夢中でキーを叩きマウスをころがした。
心臓手術体験者親睦会があることを知った。連絡を取り横浜で面談した。女性二人も同席され、それぞれ異なった内容の心臓部位で、平成の新しい心臓手術の現状を知り、手術に踏み切る心構えが強くなった。
肩で息をする息苦しさの自覚症状が激しくなり何をするのも億劫になってきた。すべての検査の結果もそれを裏付けている。
2011年1月家内同伴で、定期検査を横浜市大病院系列の「ふれあい病院」へ行き医師と手術依頼の面談をする。関内駅より150mほどの距離だけれど家内の歩調に合わすのはもの凄く辛い。若い頃はいつも後について来た家内が先を歩いて振り返っている。息苦しい苦痛だ。しゃがみ込みたいが幅の広い4車線の横断歩道では無理なことだ。これがQOLを阻害していることだと痛感した。診断結果を説明された。
☆僧帽弁も石灰化が進み人工弁に取り替える時期だ。既に大動脈弁は置換され30年間もワーファリンを服用している。これからも永久に服用するので、寿命の永い堅牢な機械式人工弁が良い。
☆すでに機械式人工弁に置換してある大動脈弁のチェックと心臓の癒着が予想されるので、この剥離処置をする。
☆僧帽弁狭窄の影響で三尖弁にリング形成術を行う。
☆大動脈瘤(上行部)があり人工血管に置換する。
☆病状に加えてリスクが19%と高いと云われ、重篤の言葉を使われた。
QOLを維持するためにも置換手術をした方が良い、年齢的にも決して遅くはない」と強調された。
余りにも多くの部位の病状で決断したつもりだが、やはり不安だ。
「はあ?」心なしか弱く返えした。
さらに続けて、再度、九州大学から移って来られた教授の話をされて心臓血管外科の充実と医術の進歩が著しいことを強調され、二度目の手術で不安顔の私を勇気づけてくれた。胸を切り開きその痛さをまた体験すると思うとウンザㇼだ。
念のため第三者の情報を確認したく、心臓協会に問い合わせたところ担当医の説明と大同小異だった。
おおきなリスクを冒してまで手術に踏み切れない気持ちは迷いの間(はざま)を行き来していた。
この頃81才で人生の終焉を迎えた先輩の訃報が入った。現役時代は机を並べて仕事した仲だった。中学のクラスメイトも逝った。認知症で介護施設に入っている者もいる。
分かりきったことだけど人の命には限りがあるのだ。
だったら細々とでもよい、手術の危険を冒し胸の創を重ねてまで生きるか、自問自答した。自然の成行きで生きられるところまで歩もうと心に決めた。
次回の検診時、先生は聴診器を当てながら手術に踏み切ることを再度勧告された。躊躇している様子に、別の病院で診てもらっても良いと、セカンドオピニオンを選択する自由を暗示された。
術後30年間フォローしていただいて気心が知れているのに今さら別の病院に・・・・の転院の気持ちはなかった。
でも、TVやネットで心臓医の卓越したゴッドハンドを持った医師が紹介されている、それらの医師の実力実績を知り得るが、永年診てもらっている病院との優劣は分からない。命を託すにはそう簡単に病院を変えられない。
肩で息をする息苦しさの自覚症状が厳しくなり何をするのも億劫になってきた。すべての検査の結果もそれを裏付けている。
担当の助教授医師の所属する金沢区福浦の市大付属病院と決まった。
⒉月⒏日家内と娘と3人で通院する。家族が同伴してもらえるのはありがたい。喜寿目前になると伴侶が欠けていることは稀なことではない、心強く感じ感謝した。
心電図、エコー、CT,胸部レントゲン、採血、等の検査を行い、今後の治療・手術のスケジュールの指示を受ける。3月18日入院、25日手術と告げられた。永い月日、なすべきかなさざるべきか迷って決断した。いよいよ来たかと思い覚悟はしているが、病状の説明された後にネットでいろいろ調べ詳細な病状・手術の方法、危険度などの知識を得た。元技術屋の体験から肉の塊の中で人工弁を縫い付ける際の開閉方向に間違いはないのか不安だ。すでに機械弁に置換した大動脈弁と新規の僧帽弁の開閉方向は上下逆だ。大動脈瘤を人工血管に取り替える際の縫合技術などは至難の業だろう。癒着部を剥離することも大変らしい。人工心肺も時間に限度がある。
医師の説明だけでは不安が募る、理解するには限度がある、元設計屋はこだわって深く知りたい、嫌な性分が残っている。
大学附属病院は医師の養成は当然のことだ。伝承により教育し、一人前の医師を育てる努めもあるはずだ。当然実地研修で若手の医師を育成するだろう。チームで対応されるだろうが、人間のやることにはヒヤリハットは付きものだ。深く掘り下げていろいろ知識を得ようとすると心の底から不安と恐怖が湧いてくる。知らない怖さと知り過ぎた怖さだろう。
入院して執刀医とのインフォームドコンセントの時点で耳を傾けて手術内容とリスクの度合いを聴いたうえで対応しようと思った。
帰途、長年勤めた会社へ用事があったので立ち寄る。
創立120年を記念して文集を発刊する計画があり、従業員OBから人選されて執筆依頼があった。たまたま依頼されていたのでCDにおさめて持参した。
久しぶりに15、6人の後輩達と交流が出来た。手術について他言は避けていたが、喋る声は肺活量が少ない上に息苦しく久しぶりの再会であっても話は弾まない。心の中では同席の元上司、後輩達と永遠の別れになるかもしれないと思い。雑談であっても気楽に談笑に入り込めなかった。

東北大地震津波の余波

 3月⒒日未曾有の東日本大震災が発生した。計画停電が地区ごとに輪番制で行われ、咄嗟に手術と非常電源の対応はどうするだろうか、滅多に無いことだから不安になってきた。非常電源設備の無い病院が対応に苦慮していると報道されている、入院する病院は大きいから大丈夫と思ったが緊急時の対応や準備を確認したかった。電話してしかるべき部署に繋いでもらった。が、停電時の対応に明解な回答がなく停電???と云う感じだった。しかし担当部署では停電対応に苦慮している状況で対策を検討中だった。いずれ答えは出るだろうと思い1週間後の入院準備を進めた。地震津波の惨状を見ると恐怖を感じるし、目前に迫った手術とが不安と怖れがさらに加わった。主治医の耳に入ったらしく自宅に電話があり⒌月中旬に延期となった。他に打つ手はない、⒉ケ月後を待とう。
大動脈瘤は予兆無しに突然破裂すると云われている。現役時代に後輩の大動脈瘤が予兆なしに破裂して即死状態だった記憶がある。
時限爆弾を抱えた恐怖を持ちながら夜間の暗闇の中の暮らしだった。地震津波の被害状況のシーンは手術前の不安を心の片隅に追いやるように津波のシーンは悲惨なもの凄さだった。
発電状況によって停電地区グループ分けが日毎に変り、手術時期の延長は良かったと思いつつも、ネットで計画停電マップを見ると横浜の東京湾側の地区は無停電地区となった。病院もこの地区で、停電対象外となり、「大山鳴動ネズミ一匹・・・」だったのか。
5月に入っても変っていない、理由は分からない。
大きな原発事故は大手術を目前にした老いた男の気持ちをいたずらにもてあそばれたようだった。

再度の心臓手術に挑む

16日家内と娘の介添えで金沢区福浦の横浜市立大学附属病院へ入院した。
入院後受け取った「手術説明および同意書」によれば処置する部位の多さに不安が募った。
◎僧帽弁狭窄症(開口面積4.9㎠→1.2㎠) ⇒機械式人工弁に置換手術。
◎既設の機械式人工大動脈弁 ⇒開胸結果補修の要否判定し軸受け部の補修施行。
◎三尖弁閉鎖不全症 重症⇒リング形成術施行。
◎上向大動脈瘤(径55㎜)切除後人造血管に置換。人工心肺装置使用して手術。
手術結果:成功率 約90~95%
術後心機能改善の見通し。術後心不全進行の予防。
心房細動から規則正しい脈に回復する可能性 80%
危険:約5~10%
病院死亡率 (日本胸部外科学会統計2008年による)
再手術による僧帽弁置換 + 三尖弁形成術  4.1%
初回手術による上向大動脈置換術      2.4% 
Japan score (日本心臓血管外科学会)による 患者《○◇☒△》のリスク
30日以内 手術死亡率  18.9%
30日以内 手術死亡率 + 主要合併症65.1%
こんな「手術説明書」を見せられて大船に乗った気持ちで手術台に乗れるほど肝っ玉は据わっていなかった。でも入院前に家内と二人の子供宛てに覚悟の気持ちを表して持参し、枕の下に収めた。
手術中の合併症で一番のリスクは冠動脈狭窄による心不全であり、真っ先に冠動脈カテーテル検査を行うこととなった。カテーテル検査のリスクの説明を受け、同意書にサインして手術着に着替えた。歩いて検査室へ向かい検査台に横たわった。30年前とは検査室の様相は違って最新設備だ。右手の手首付近に局部麻酔が打たれ感覚がなくなってきた。意識は明瞭だ。ベッド左側に若い女医さんが30㎝くらいに顔を近づけ介添えをしてくれ励ましてくれている。目元のアイシャドーがはっきりと目に映りマスクに隠れた美人医師を強く印象付けられた。余裕があるな!
右腕にカテーテルが挿入されていく感覚が、痛みなく分かる。カテーテルの挿入で周りの皮膚や肉が引き連れて押される感覚がはっきりと意識する。
カテーテル挿入医師とモニター操作医師との会話が数分間続いて終了した。
胃カメラ検査、肝臓CTなどを行い術中の合併症に対して万全の注意が払われた。これで心臓大手術の準備は整った。
入院してから手術に備え出血防止のためワーファリン服用は止め、へパリンの点滴を続けていた。これも初めて知ったことだが血液の抗凝固と出血抑制との相反する処置をどうするのか疑問を持っていたが医薬の進歩に納得が出来た。
前日に手術に備え久しぶりに風呂に入った。防水電動カミソリを持たされ自分で剃毛するよう命じられた。剃毛結果を視た看護師は「こんな多く剃毛する必要なかったのに・・・・」と云ってOKを貰った。先に云え!と思ったが口を噤み言葉を返さず素直に返事をした。
いよいよ5月23日手術当日を迎えた。午前8:50手術着に着替え歩いて看護師や医師達が乗っているエレベーターに同乗し、4階の手術室へ向かった。ストレッチャーで運ばれた前回の手術と隔世の感がある。手術室の待機部屋で注意を受け、手術台に横たわった。
そして記憶が途絶えた。 ☒x△*◇x△;☒x◇:○・・・・・・・・・

サイボーグ状態で再び蘇る

待機していた家族に手術成功の連絡が入ったのは13時間後の夜の10時頃だったらしい。麻酔から覚めて「あまり長いので夜間灯の薄明かりの部屋で待つ不安は心細さでいっぱいだった」と、大手術を待つ身の苛立ちを訴えられたが、笑みで応えたので「良かった!」と返ってきた。
そのうち、ICUで、幼い声が「イタイヨ!痛いよ!」と聞こえて、完全に意識が戻ったらしい。
中年の男性の声で「オレはどこもワルクナイココからダシテくれ!」と我儘を云った怒鳴り声が耳に響き、看護師のなだめ叱る声が重なる。われに返り俺が幻聴なのか分からない、周囲の様子がはっきり分かるようになった。10cm角、厚さ2cmほどのプラスティック容器に血液が滲んだ白いラード油脂のようなものが左腰の横に置いてあった。これがφ8mmくらいの透明なチューブに繋がり開胸創に張り付いていた。30年前大動脈弁の置換手術で麻酔から覚めて胸に手を添えるとガーゼに覆われた太い縫い糸が触れたが、今はない。ひきつれる感覚もない。
家族、姉妹や高校生の孫たちがベッドの近くに寄ってきて手術成功を喜んでくれた。胸から聞こえる人工弁の音と祝福の言葉が間断なく聞こえる救急車のサイレンにかき消される。
ICUからHCUに移った3日後には開胸創は完全に付着して痛さはなく、ただ痒みだけだった。30年前の抜糸の激痛はなく医術の進歩の恩恵だろう。心臓の血流が全開して流れている感じとなった。
当時は、ICUと名がついた集中治療室は無く術後の患者も居る雰囲気ではなかった。絶え間なく救急車のサイレンが響き喧噪に拍車をかけている。
嚥下障害防止、尿、ドレン、酸素などのチューブやパイプは毎日のように躰から離れていき、2週間過ぎには心電図モニターも外された。呪縛から解放されたようで、2回目の甦りに万感込み上げて来た。間もなくHCUへ移り経過順調。4日後に個室に戻った。
個室では横浜金沢の海を間近に見え、遠く房総半島を眺望出来てしばし生きて戻った喜びに浸った。
多種の人工物を心臓に埋め込み、まさにサイボーグ機能を備えた心臓となり80代に突き進めそうだ。
64㎏→54㎏とスマートになった。震災、津波、原発事故、計画停電と未曾有の多難な年に大手術であったが無事成功した。重なった開胸創はきれいに接着し術後一週間後には消毒なしで入浴の許可が出た。例の美人のアシスタントナースが介添えをしてくれ背中を流し手術中の汚れを洗い落としてくれた。
喜寿を過ぎた男にはもったいないことだった。
5日後には病院専属の女性リハビリ師による歩行訓練が始まった。ちょっとふら付くが杖もなく意外と脚力の強さに安心した。


(術後50日目)

心臓のバージョンアップ(ペースメーカー植込み)

ICUから病室へ戻って切開痕を鏡に映すと何故か左の鎖骨下に10㎝ほどの切開の縫い痕がある。手術中徐脈となりペースメーカー(PM)を埋め込む準備だったと主治医から聞いた。胸の創の痕跡が増えようとノープロブレムだ。しかしこれ以上人工金属は欲しくない!ホットした。
退院後、フォローの定期検診で徐脈の傾向を指摘され、ホルダー心電計を装着して様子を見た。毎朝計る血圧、脈拍は正常で目眩、ふらつきもなく、高校野球も終わり秋風が立つ頃から再び趣味の木彫りを楽しみ始めた。ワーファリンを服用している、危険を避けろ!怪我するな!と云われながらも鋭利な電動工具、彫刻刀などを使っての作業だ.タイクツに負けないためには好きなことに熱中する性分だろう。
正月が過ぎ、春が来て季節の移ろいに敏感になる、色を競うかのように梅雨の水しずくをアクセサリに紫陽花に目を奪われていた6月中旬、計る脈拍が異常に少ない。何となく活力は無くなっているが息苦しさは無い。40以下/分では健常者の半分だ。TVを観ながら自覚症状が無くても素早く手首に指を当てる、緩慢な脈動が指を伝わってくる。遅い!血圧計で確かめるが、やはり徐脈だ。6月18日朝食後に喰いるよう新聞を読んでいた。隠居くらしは会話と活字に飢えている、何が起こったか分からない、気付くとフロアリングの木目が目に映つり左こめかみに痛さを感じた。朝のドラマを観ていた家内が跳んできて大声を掛けられわれに還った。これが失神と云われるものなのか、ロマンポルノの世界だけのことかと思っていたが喜寿を超えた男が初めて体験をしてしまった。梅雨時だが、脈拍が60~70を推移して気を付けながら近所を散歩していたのだが・・・・‐ ‐ ‐ ‐
そして7月3日の夕食が終わってメガネをかけてTVを注視していた。またイスから転倒し、左こめかみの痛さに我に還った。メガネのフレームが曲がって転がっている。
擦過傷だから、かなり痛い、二度目の失神だ.正気になり「これは「ヤバイ!」と思い、外出中ならば命は無いと唖然とした。これ以上家内に心配させられない。定期フォローされている病院の電話ボタンを叩いた。翌日主治医から同じ病院であっても循環器内科への紹介状を書いて渡され、明朝一番に通院するよう指示された。循環器内科は初めてかかるが、今は、ペースメーカー手術は心臓血管外科からシフトされたと聞いていた。PMの手術内容、プロセスや諸々の知識はネットや本で得ていたので頭は整理されている。昨年大手術で3週間の病院生活を体験したが、生死をさまようような状態の失神であっても意外に冷静である。PMを埋め込めば多少は不便になり注意も必要となる。
この病院では年間100例の植込み手術が行われている。電車内のアナウンスもかなり以前から注意を喚起している現状を思えば一般化しているのだろう。
初対面の循環器内科の医師に対応してもらい6・7月の体重、血圧、脈拍数や失神した日時をアッピールしてグラフ化したデータや心臓の病歴を時系列的に表示した紙面を見せて説明に心を配った。医師はデータを読みながらベッド上の私の顔を見比べていた。一人はベテラン医師だが若い医師は昔流に云えばインターン生のように若かった。マスクをしているので良く分からないが坊ちゃん医師の印象を受けた。脈動を点滅する計器をスタンドポールに取り付けられ脈動は目と耳で確認できた。正常に戻っているようだった。心電図、レントゲンの検査を行いPM植込み前の準備に入った。尿道にドレンチューブをあっという間に膀胱まで挿入された。心臓手術では当然同じことをされたと思うが全身麻酔で無の世界だから分からない。利尿剤を服用しているからだろうと思ったが術後動けないための策だった。別の病気で内視鏡を挿入されたことはあったので驚かなかった。心電図・レントゲン・エコーなどひと通りの心臓の検査を終え、直ちに同じフロアーのカテーテル手術室へストレッチャーで運ばれた。ベルトコンベアの流れ作業のようであり、病院到着後二時間足らずだった。
昨年カテーテル検査した時、モニター、や天井の様子が同じだ。記憶が甦り、看護師が印象強く黒の手術着に白衣を重ねマスクをし、さらにアイシャドーした瞳を間近に寄せて準備してくれた。昨年カテーテル挿入で見た時の情景だった。
顔を左側に曲げ、右側の首の45度位置に局部麻酔をして静脈に仮のリード線を挿入された。その部分をガーゼ。テープで厳重に処理されリード線が洞結節部に接していることを天井から吊り下げられたレントゲンで撮り確認されて病室へ戻った。
植え込まれたリード線とスタンドポールに吊り下げられたペーシング機器に接続され、左手首に点滴ソケットを射し込みセットされる。ヘパリン(抗凝固剤の一つ)が点滴された。
ベッドでは上半身30°以上置き上がってはならない。食事は家内からスプーンで一口、ひとくち食べさせてもらう、視野は狭くスプーンすら見えない。直接咽喉に落ちるがつかえる。咄嗟に嚥下障害が頭をよぎる。緩やかに顔を横にそむけ頬の内側に落としてもらい昼食抜きの空腹を満たすことが出来た。誤嚥で逝った先輩の影が脳裏をかすめたのが注意を促されたきっかけだった。
同じ姿勢で過し、まんじりともしない一昼夜が過ぎた。食事は完食。水分は1000ml 200ml/日。の制限を受けているがエヤ―コンデショナルだから充分だ。本を読み、ラジオに耳を傾け悠々のベッド生活が始まった。
回診で循環器内科部長先生が診えて心臓手術の病歴を尋ねられたが文章化してあったので過不足なく説明した。担当の若いF先生が一歩離れてうなずいていた。毎朝採血、血圧、脈拍,酸素量を測定された。
昨年の心臓血管外科では看護師がワゴンにパソコンを載せて数値を入力していたが、ここでは手元計器に入力して送信すれば病室のアンテナ経由ナースステーションに無線送信される。一年経って効率化されたのか分からないがIT時代だ、当然のシステムだろう。
9時頃F先生が見えてベッド横に移動式X線機器を押して来た。寝ていて正面。側面のレントゲンを撮影した。午後にはエコー機器が搬入されF先生が心臓、リード線位置に滑りゼリーが付いたブローブを動かし始めた。夕食が終わりくつろいでいると先生がお見えになりエコー、レントゲンの結果、問題ないと報告された。これでひと安心だ。後は本式のペースメーカーを埋め込む手術だ。 
朝食後看護師さんが見えて「着替えをしましょう。お下も洗います」と云いながら準備を始めた。
「チューブで傷つきバイ菌がつくと大変ですから洗浄しましょう」と云いながらパジャマを着替えさせてくれ手際よく洗浄液をかけてもみながら洗いだした「次は後ろです横を向いて!」云われるままに看護師に身をゆだねざるを得なかった。昨年の手術では全身麻酔の無の境地でドレンチューブの着脱は記憶にない。昭和一ケタ生まれでも不肖のムスコが目を覚まさないよう耐えた。この洗浄はチューブが抜かれるまで毎朝の日課となった。

看護師研修生と交流

毎日来てくれる家内が帰ろうとした矢先、見慣れない年配で平服の女性が「婦長です.タカシゲさんにご協力をお願いしに来ました」と云いながら用紙を手渡された。「看護師研修生の実習としてタカシゲさんの血圧、検温等の測定を10日間ほどご協力してください」と頼まれた。毎日3交代の看護師さんに診てもらっているから。「こんなジジイに!?」と、思いながら抵抗なく承諾し用紙にサインした。
翌日朝、教師に連れられ見えて紹介された。孫娘のような感じがしたが、背は高い170㎝近くある色白の可愛い子だな!と強く印象付けられた。血圧を測るのに取りだしたのはブリキ製のケースで水銀柱が立ち、ゴム製のたまご大で空気を注入するタイプの血圧計だった。子供のころ診察室で見たものだ。博物館でしか見られないだろう。手っ取り早く腕帯を巻き聴診器を肘の内側に当てがい真剣な眼差しで水銀柱を凝視している。高校卒業して間もない県立看護専門学校の生徒と、この“血圧計”はあまりにも不釣り合いを感じて計る所作にジーッと見とれた。
退院のころまで診てもらうので「出身地は?」訊いてみた。八幡平、高校ではバスケの選手・・・・
身長が高いのは納得した。色白の秋田美人だ、バスケで有名な能代工高、秋田へ疎開した想い出、疎開時代を回顧した東北の旅と話題が尽きないが、あまりにも時代の差が大きすぎる殆ど話が合わないが7:3の会話で退屈な病院生活に彩(いろどり)を添えた。7月12日 本式のペースメーカー植込み手術が行われた。淡いグリーンで肩の部分にマジックテープが付き着脱し易い手術着を着せられストレッチャーで手術室へ入った。
追うように秋田美人の研修生が手術台の横まで来て「タカシゲさんガンバってください」と手を差し伸べられ思わず「アリガトー」とその手を強く握り返した。去年の手術から見れば手術内容と時間は雲泥の差だけど冷静さは充分に保たれていた。
PM専門医のM医師と担当のF医師が準備万端迎えてくれた。顔に5㎜程度のステンレスで出来た約7㎝枡目のドーム状のかごがかぶせられ薄青色の布がその上に覆われた。手術部や医師の様子は分からない。「麻酔を打ちます、チクッとします」と云って左の鎖骨下の筋肉部に数か所に麻酔注射された。感覚として極細の針だと分かった。
「痛いですか、痛かったら云ってください」「大丈夫ですか」を繰り返して念を押された。
「入っているリード線を抜きます」と云われ、右側の咽喉部に鈍い痛みを感じて挿し込まれていたリード線が抜けていくのが分かる瞬く間だった。
「タカシゲさん左脚の付け根からカテーテルを挿入します」左腹部の深いところに鈍い感覚を感じる。目を細めて脚の方を見ると挿入している医師の一部が狭い視野に入る。
感覚を左胸部に移すと肉にメスが入り、肉体に隙間ができ料理番組で観る牛肉に包丁で切る情景が想像できる。10㎝くらい切り開いているようだ。
長いものを挿入しているようだ正規のシングルリード線を心臓に通じる静脈に入れているらしい。鈍い痛さに気をとられているとひだり鎖骨下の筋肉をかなり強い力で何度も強く押している。ネット情報で知ったPM本体写真を頭に浮かべながら挿入部の様子を想像していた。所定の位置におさまったのか切り開いた個所を縫っている。表面が引きつれ、質量のある本体を埋め込んだからか、横の筋肉が盛り上がっているようだ。また、縫った横を切開しだした。思わず訊いてみた「PMを埋めたから盛り上がった筋肉をなじませるのですか」「いや、端子の接続をする部分です」と云われ手術中で余計なことを云ったかなと思ったが気楽な雰囲気での手術中だったから追好奇心で訊いてみた。端子接続部の接続をして終わったのか又縫う針の動きが分かる。5,6針、縫われたようだ。縫い痕を馴染ませているのか鈍痛を感じる。顔を覆っていた眼隠しが取り除かれて手術室全体が視野に入った。
PMが埋め込まれてガーゼで覆われた部所にPCマウスより少し小さめな感知デバイスが離れて当てがわれ、F医師がディスプレーを見ながら脈拍を読み始めた。0.8、0.7、0.6、0.5、0.4、0.3、0.2、0.1と呼称し好いリズムの脈動だ。OK!と確認された。数回繰り返し、念を入れていた。
「リード線が定着するまで左手が動かないよう胸帯をします、左手は身体から話さないようにしてください」と云われ少しばかり不自由になるなと思った。
改めて「先生設定数はいくつですか」と訊く。「70~120ppmです」と云われ、あれっ!と思った。今までペースメーカーの知識として設定された脈数は巾が無く、運動などで負荷が掛かれば設定以上の脈数とならず酸素が不足しがちと理解していた。過激な運動等は極力避けなければならないと思っていた知識は誤解だった。
ペースメーカーのppmはpals per minuteだろう。徐脈はPMで70まで確保してくれればそれ以上心臓に負荷が掛かれば120ppmまで追従してくれるらしい。植込みは完了し。出口で待機していた家族の安堵した顔を見ながら笑顔で応えて病室へ戻った。腕時計を見ると16時だ。2時間で終わったのだ。
 夕食はベッドを起こし美味しく食べた。ベッドで横たわっていたのだが腹は空いた。
看護師が「これを良く読んで注意してください」と“ペースメーカーの説明書”を渡された。
金属探知機やケイタイに近接しないよう注意されてあったのは既に知っていたが体脂肪計は使ってはいけないと記載されてあり、対応を後日メーカー確認することにした。
翌日、F医師が身障手帳の発行の話があったが既に受領してあり、追記するかは区役所に確認となった。躰の人工物挿入などは法的な知識として把握しておく必要がある。015
 抗生物質の点滴、病室でのレントゲン、エコー、を2日置きに行い、日課の消毒、洗浄をしてもらいながら創の痛みも徐々に和らいできた。その合間に研修生とのとりとめもない雑談に気を紛らした。
久しぶりに22時から“女子サッカーなでしこ”オープン戦を観終わって眠りについた。
7月20日2か月振りに病院のバーバーに行きさっぱりとした。病室に戻り看護師に「見違えた!」と冷やかされて「ジイサンをからかうなよ!」と応えながら2週間ぶりに風呂でさっぱりした。鏡に映る胸の中心を通る創は白い肌色だけどPMを植え込んだ個所は白い絆創膏で覆われているが他は内出血して紫色に変色していた。
 思えば20代に盲腸で3針縫ったのを皮切りに、運動、心臓手術、事故、今回のペースメーカーなどで合わせて100針ほどの糸で処置されている。自慢にはならないがよくよく八十路を下り生き永がらえていると思う。
           了
(初回、二回目の心臓手術さらにペースメーカー植え込み手術の記憶を綴ってきた短編集を整理して、まとめた。)

2015年・夏 たかしげ

(文章・写真提供: たかしげさん)
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ありがとうございました

感動を持って読ませて頂きました。
私と重なる体験も多く、思わず笑ったりしました。
勿論、涙なしには読めない部分が多々ありました。
ご本人の記録も、このブログへの文字打ちも大変だったことでしょう。
大変ありがとうございました。

有難うございます

長い長いご闘病の記録ですが大変読みやすく興味深く読ませていただきました。
有難うございます。
自分も今は5年前の手術以降お陰様で元気に過ごしていますが、
将来また調子悪くなる可能性もないとは言えません。
そんな時にこういった体験記はとても参考にもなり勇気をもらえます。
感謝です。

感謝します

暑中見舞い申し上げます。
いよいよ夏本番ですね。猛暑に負けず《復活した心臓》はお元気ですか。
 ”晴耕雨読ブドウ園”さん、”kelo"さん ”各々”さん 体験記を読んで頂き有難うございました。感謝します。冗長で拙い文で貴重な時間を割かしたでしょう。
PT-INR値は4月に2.58でgoodです。(ワーファリン1㎎x3/日)

平均寿命を超えても意外に猛暑を避ける知恵は残っています。高校球児の奮闘を愉しみに過ごします。

たかしげさん、ありがとうございます。

たかしげさん、

いつも貴重な経験談を寄せて下さりありがとうございます。

たかしげさんの年齢でパソコンを自由に操り、電子データで情報を発信されている方は
少ないと思います。しかも、2度の心臓手術とペースメーカー埋め込み術を経験された
実体験を世の中に発信されている方となれば尚更です。誰にでも書ける文章ではありません。

世の中にインターネットが普及し始めて20年以上経っているので、今後は高齢の方でも
こうした環境がより身近になってくることでしょう。
そうした時に、たかしげさんの体験談は今読まれている以上に価値を増してくることと思います。
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Author: カムバックハート

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カムバックハートこと、鍋島と申します。神奈川県川崎市在住の48歳男性。

2008年12月に僧帽弁形成手術を受けて、第二の人生をスタートさせることができました。

南淵先生と私

南淵先生と私(術後の初外来にて)

フィルムで写真を撮るのが趣味です。(元)心臓病仲間のポートレート写真展の開催に向けて準備中です。詳細はこちらの記事。「創と私」「術前 vs 術後比較ポートレート」「病気を支えた家族と(元)患者のツーショット」「笑顔の(元)心臓病仲間のポートレート」のテーマで作品制作中です。これから心臓手術を受けるかもしれない人達に元気になる期待と勇気を与えたいと思っています。

心臓病仲間の輪に入りたい方や、ブログについてのご質問、お問い合わせのメールはお気軽にこちらへ どうぞ。但し、私は医者やカウンセラーではないので医学的なご質問にはお答えできません。初めての方は簡単なプロフィールをお願い致します。

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このブログは、私が弁膜症の僧帽弁閉鎖不全症という病気に診断されたところから、入院、手術、退院、その後の生活という流れで時系列に記載しています。2008年12月当時の状況ですので、その後の医学の進歩で内容的に古くなっている部分があるかもしれません。実際の患者にしか分からない心理的な面の記述をできるだけ表現したつもりです。最初から読まれる場合は、「★はじまり ~こちらからご覧下さい~

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南淵明宏先生の公式サイトにある「勇患列伝」 その7に出てくる「平松」とは私のことです。

yomiDr.のサイトにある世相にメス 心臓外科医・南淵明宏ブログ にこのブログのことを書いて頂きました。こちらの記事には第三回(元)心臓病仲間の集まりについて書いて頂きました。
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